6、英語が話せない息子がバイリンガルになるまで

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遠く離れた孫達の事を思い、おじいちゃんおばあちゃんがせっせと送ってくれたたくさんのおもちゃ達の仲のほんの一部です。まだまだ誰かにあげる事も捨てる事も出来ず、取ってあります。最近ふと思い出して順番に出して写真や動画を撮っています

 

三つ子の魂百までも、なーんて言う言葉もあるので、幼稚園に入るまで、息子たちはほとんど英語に触れずに、日本人コミュニティの中でお友達を作り、プレイグループに参加して、日本語のみの生活をさせました。幼稚園に入れば嫌でも英語環境になるので、それまでは、と。  

結果、今でも仲良く、日本語で話せる日本人の友達がいる事は、とても良かったと思います。 

しかし、2歳で幼稚園に行くようになりましたが、一向に家に帰って来て英語を話す気配がありません。たまに幼稚園へ見にいくと、楽しそうにお友達と遊び、本を読んでもらったり、先生のお話を聞いたりしているので、それなりにコミュニケーションは取れているようだし、、、でもよくよ〜く見てみると、お友達とは楽しく遊んでいるのですが、誰も喋ってはいないのです。つまり、小さい頃って言葉は必要ないって事なんですよね.

それでもちゃんと遊べる、ほんと子供は柔軟で屈託がなくていいですね。

もちろん、話す事でコミュニケーションを取る子達もいます、がうちの子達はそう言うタイプではなかったらしく、それでもみんなと仲良く過ごしているようで安心し、英語はきっともう少し大きくなれば大丈夫だろうと思っていました。

そうこうしているうちに、あっという間に5歳!こちらでは5歳のお誕生日が来たら入学です。全員バラバラなので入学式なるものはありません、お誕生日の次の日から学校です。

ですから、新入生はうちの子だけ、あとは皆先に5歳になった子達です。小学生になればお勉強も始まる、でも英語はまだまだだし、大丈夫だろうか?とちょっと心配でしたが、子供の順応性を信じて、心の中で”がんばれ〜”と応援していました。

いつでも授業を見に行く事が許されていましたので、たまに行ってみたり、物の陰に隠れて見たりしました。まだ英語が出来ない息子がお友達に早く慣れるようにと先生が、“日本語の絵本を持って来てください”、と言うので持って行くと、”今からこの子が日本語の本を読むので皆さんちゃんと聞いて下さい”と言って、息子が本を読むのをクラスの皆でじっと聞いているのです。終わったら先生が”この子はまだ英語が上手くないけれど、日本語は話せるし、ちゃんと本も読めるのです”後数ヶ月すれば英語も皆と同じ様に話せる様になるでしょう、二つの国の言葉をこんな小さいうちから話して読めるってすごいですね、と子供達の前で褒めて下さったのです。きっと先生は、言葉の問題でお友達が出来なかったり孤立したりしない様に考えて下さったのでしょう。とても嬉しかったのを覚えています。

また、こんなこともありました。

普通は学校にオモチャ等の私物を持って行ってはいけませんが、早くお友達を作るために、ランチボックスに小さな日本のおもちゃを入れて行っても良いか先生に聞きました。

もちろん壊れたり無くしても構わないと言う約束で、先生はそれは良いかもしれないわねとすぐに承諾してくれました。

毎日ランチボックスに違うおもちゃを入れて行くと、子供達がそれなに?と寄って来て話が弾むと言う訳です。

そうやって、先生のご協力のもと、息子が早くみんなの輪に入れる様にと願ったあの日々が、今は懐かしく思い出されます。

そして、もう少し大きくなってからの担任の男の先生は、生徒達にこういうお話をしてくれたそうです。

その先生がまだ若かった頃、朝出かける時に母親にかけた言葉が”クソババア”と言うような言葉だったそうです、その頃は多感な時期でいつもそんな感じだったそうです。結局それがお母さんとの最後の会話になり、その日お母さんは交通事故で亡くなったそうです。

その最後の自分の言葉を今も後悔している、でももう二度と謝る事も出来ないと、

だから、みんなも同じようなあやまちをしてはいけないと言うお話だったそうで、その先生のお話は息子の心に深く響いたようでした。

こちらの小学校は日本に比べ勉強の進み具合が遅い気がして、少し不安もありましたが、勉強以外の大事な事も学習していたのかなと思います。

まあそんな感じで、小学校に入って1年経つ頃には普通にお友達も出来、英語も話す様になり、英語の宿題も普通にこなす様になりました。

言葉の問題は早い遅いの差こそあれ、大体は自然に学習して行くようですね。

こうして大きな努力をせずにバイリンガルになれると言うのは、大人になってから必死に勉強する方から見たらうらやましい限りですね。

 

次回は習い事、とりわけ二人がヴァイオリンとピアノを辞めずに続けて来られた事等お話ししたいと思います。

 

 

5、バイリンガルに育てるために〜

 

 

 

 

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今年2回目の朝顔が咲きました!一回目の朝顔からとったタネで育てた朝顔です。かわい〜。


母親になる事が一番の夢だった私ですが、母親になれたのは結婚7年目でした。5年、6年と月日が過ぎ、さすがに自分の中ではほとんど諦めかけていた頃、私がこちらへきた頃のこの国の首相が子沢山で、中の何人かは養子だと聞きました。

日本ではまだ養子という選択は、なるべく隠して行われる事のような、そんな印象がありましたが、海外では自分に子供がいても養子を迎えたり、周りに隠す事なく受け入れていることを知り、私も最終的に自分の子ができなければ、養子を迎えたいと考えるようになりました。

でもそうなると日本の田舎で暮らす両親が嫌がるだろうかと思い、母に聞いてみると、“外国の女優さんとか俳優さんとか、外国の人は堂々と養子を受け入れている、日本で育つのなら多少心配だけど、外国で育つのならきっと肩身の狭い思いをする事もないだろうし、どっちにしても似てないんだから、髪の色も目の色も違う子だっていいじゃない”と、全く予想に反して私の背中を押してくれさえしたのです。

その言葉で私の気持ちが軽くなったからなのかわかりませんが、ほどなくして私は最初の子を妊娠出産し、その後一歳半違いの年子の男の子の母になりました。

 

年子のお世話は、風邪を引けば一緒にひくし、泣くときも同じタイミングで泣くし、大変と言ってしまえばそうなのかもしれませんが、それよりも“楽しい”と“可愛い”という思いが大きくて、そして母になれた実感で、毎日毎日が本当に楽しかった。

  

まず、子供達を育てるにあたり一番最初に考えたのは、“どのように彼らに日本語をキープさせるか”ということでした。 まわりは英語だらけですし、幼稚園に入ればお友達も先生も全員英語ですし、ほって置いたら家でも英語を話すようになるのは避けられません。

でも、日本の両親との会話を、通訳なしではできないなんて事には絶対にさせてはいけないと思っていましたので、“あいうえお“のポスターを貼ったり、本を読んだり、日本人プレイグループに行ったり、学校へ行くようになったら日本領事館から配られる小学生の国語の本で漢字の練習させたり色々と考え試行錯誤しましたが、

結果、今彼らはバイリンガルに育ち、日本の小説を読むこともでき、漢字を書くのは苦手ですが、どの漢字を使うかがわかるので、コンピューターが変換してくれる漢字の中から正しいものを選ぶ事ができます。

結局一番彼らの語学の上達に役に立ったのは、机の前の勉強ではなく、おじいちゃん、おばあちゃんがせっせと送ってくれる、漫画の本とビデオでした。漫画を読むことで文字を読む事に抵抗がなくなり、大人になった今は漫画の他に小説やノンフィクションなどいろいろなものを読むようになりました。

ドラえもんやレンジャーもの、ポケモンやワンピース他とにかく色々とビデオに録画して送ってくれましたので、私が教えていない言葉もいつの間にか覚えて使ったり、どんどんボキャブラリーが増えていきました。

 

そんな感じでしたから、言葉に関しては本当にストレスフリーで、親子ともに案外楽して身につけられたと思います。

何と言ってもおじいちゃんおばあちゃんに感謝です。おじいちゃんは92歳になった今も二人のために、まだ続いているワンピースのコミックなどが発売すると送ってくれます。

おばあちゃんはあの頃、テレビの漫画のビデオ録画のために、毎日その時間とぶつからないように買い物に行き、掃除をしててもお料理をしてても、番組が始まる5分前にはビデオの録画ボタンを押すためにビデオデッキの前で正座して録画ボタンに指をかけて待っていたものです。

たまに里帰りした時にその姿を見て“親ってありがたいな”と思いました。最近よく、どうやって息子たちの日本語をキープできたのか、若いお母さんたちに聞かれますが、実際こんな感じで、ほとんどコミックとアニメに丸投げした様な感じで、大した参考になる様な、ならない様な。 

そうそう、バイリンガルに育てる為にもう一つ大事な事は、兄弟では必ず日本語で話す事!これを徹底しないと兄弟で英語で話すようになるともう止められません。そうなると、英語で話す方が楽になり、親の前では、怒られるので日本語を話すでしょうけど、結局簡単な会話しかしなくなったり、日本語の端々に英語の単語が出てきたりするようです。。

家は日本語、外は英語と小さい時からきっちり分けていたら大丈夫でしょうね。

 

何れにしても、今ならインターネットでかなり色々と動画が自由に見られるので、日本のおじいちゃんおばあちゃんに録画の負担をかけずにできそうですね。

今回は言葉について、書いてみました〜。

4、子供の頃に決めた将来の形

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ちょっとお高いカフェランチを息子がおごってくれました!オークランドのカフェランチは本当に高いです!!なので、カフェではコーヒーを飲むかマフィンかスコーンを食べるのみでしたが、初めてランチを食べました。美味しかった^_^


最近本当に暑くて、家の外に夏の落ち葉が大量に落ちていて汚いのに、全く掃除をする気になれず居ましたが、昨日夜の11:00頃にゴミ出しに外に出たら、外はなんと涼しい事!いまだ!!と思い、誰も見ていないと思って月明かりの中外の掃き掃除をしました。あ〜スッキリした。

 

さて、今回は、子供の頃と言っても中学2年生くらいの頃に思った事です。

その頃、前回のブログに書いたように、いつか子供ができたら私がやりたくてできなかったバレエとピアノとヴァイオリンを習わせたいと思い、と同時に、結婚をせずにシングルで子供を育てたいと思っていました。なぜそんなにはっきりと覚えているかと言うと、その頃仲良くしていたお友達のお母さんに、“私は結婚はしないけど、子供は育てたいと思っている”、と言ったら、“それは絶対にダメよ!子供の為にはお父さんもいなければダメ!!”と、ものすごく真剣に答えてくれたのです。私は、今までのように、“まだ世の中の事全然わかってないからそんな事言ってるのよ”って感じで軽く流されると思っていたのに、想像以上に真剣に答えが返ってきたので、私はとてもびっくりして、その時の光景が心に残ったのです。

当のお母さんはもうすっかり忘れているでしょうけどね。夫婦円満な愛情深い家庭で育った私がなぜ、シングルで育てたいと思ったのかはハッキリと覚えてはいませんが、多分子供に対して同じ夢を持つ人に巡り合う確率は少ないと思った様な気がします。

結局、結婚はしましたが、後々離婚をし、結果あの頃に思い描いたシングルでの子育てと言う道を行くことになりました。 子供達にとっては残念な形になってしまったのかも知れませんが、私にとっては理想の形になり、私の全力は多少ウザいと思われようとも子供達のみに注ぐことができる体制になりました。

 

もともと経済的に余裕のある暮らしでもなかったので、私一人の収入と国からのファミリーサポートで相変わらず金銭的に余裕のない生活が始まるわけですが、私が頑張らなければと言う思いで力がみなぎっていましたので、とにかく経済的な理由でピアノとヴァイオリンをやめさせるような事態にだけはするものかとがむしゃらな日々が続きます、子供達がその頃の生活をどの様に思っているかわかりませんが、私は相変わらず経済的なものを除けば、楽しくて楽しくて楽しい日々でした。今振り返ると、よくやれてたなあと思います。まあ今もさほど変わりませんが。

 

離婚をした事で子供にも多少なりとも寂しい思いをさせたかもしれない、海外へ移住した事で両親にも寂しい思いをさせてしまっただろう、周りに微妙に影響を与えながら私の自由な生き方が成り立っている。

本当に自由に、思うように生きてきたなと思います。

母が、昔私に“もしも一つだけ願いが叶うとしたら何を願うと思う?”と聞きました。私は必死に考えましたが“お金”以外思いつきませんでした、だって結局はお金があれば大体の夢が叶うと思っていましたから。 母は、“お金なんてそれがあれば何とでもなる、欲しいのは若さよ”って。その頃の私には充分過ぎるほどあるものだったので、“ふーん、そうなの”というような、漠然とした感想でしたが、今になりその時の母の気持ちが良くわかる歳になりました。

 

若いというのはそれだけで宝なのだと。そして思うのです、今、母は83歳ですが、今の自由に生きる私を見て母は、きっとやっぱり思っているに違いないのです、せめて私と同じくらいの年齢に戻りたいと。だから私は今もこれからも頑張って、お金が無くてもそれなりに楽しく残された人生を生きたいと思っています。次回はそろそろ子育てに行こうかなと思います。それでは、

 

 

3、自分の子育てのお話の前に、自分が子供の頃に決めた事

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明日、ちょっとした会があるので、久々にデコレーションカップケーキを作ってみました。子供が小さい頃はピカチュウとかケーキで良く作ってたのに。

さて、今回は結婚7年目にようやく出来た待望の子供達の子育てについて振り返ってみようと思いましたが、それを振り返るにはまず、私の子供時代の思いを振り返ってからにします、子供時代の思いが子育てに多分に影響を及ぼしているとも言えるので。

 

私は愛情深い両親に育てられ、兄とも仲が良く、家庭内には何の不満も無く幸せに大事に育てられました。ただ、一つだけ子供のころの不満は、同じ年のいとこと遊ぶ事でした。同じ歳だし、女の子だし、と言う事で同じお人形を買ってもらったり、家も近かったのでいつでも遊ぶ相手と言えばその子、大人達も安心してみていられたのでしょうね。その子は大人の前では本当にいい子で、子供なのにとてもしっかりしているという態度を常に見せていました。ですから、私の事は妹のように可愛がっていると言う態度を大人達の前では見せるのです。そして、いかにも私は遊んでいても手がかかって、自分が我慢していると言うようなことを言うのです。大人達も私の両親を除いては、皆がその子の態度になんの疑いも持たず、その子がしっかりしているから二人で遊ばせていても本当に安心だ、というように常にその子を褒め称えていました。

まあ、私のおばあちゃん世代は子供らしい子供よりもちょっとませた、大人ぶった子供の方が良い子だと言う風に考えていたのだと思います、時代ですね。おばあちゃんは小学生に上がるか上がらないかの年に、よそのお家に奉公に出されて働かなければいけなかった、そういう時代ですから仕方ないのかもしれません。

話がそれましたが、そう言う子ですから、大人の前ではしっかりして、私と二人の時には全く違う態度なのです。

そして、私はその時に心に決めたのです、大きくなったらこの子とはもう会わない、自分で自分の行動を決める事が出来る様になったらもうこの子とは会わない様にしようと。

そして私は高校を卒業する頃には自分の意志でその子には会わない様になりました。

それが、私が子供の頃に決めた最初の事です。

それから、私は小さいころからバレエを習っていました、あのころは高度成長期で、どのお宅でも子供が出来たら習い事をさせると言うような風潮があったのだと思います。

バレエはとても好きでした、ただ発表会になると舞台用の濃い化粧をされて、つけまつげを付けるからと長いまつげをカットされ、髪の毛もふわっとボリュームを持たせて、どう見ても顔だけ見れば夜のお仕事に行ってきます!!って言う感じにしか見えないのです。その顔がとても嫌だったのですが、それでもいつもは発表会が終わると化粧も落として着替えて帰って来るのですが、ある日時間がなかったのか、服だけ着替えて顔はそのままで帰って来た事があります。顔はおばさんなのに服は子供で小さくて、どう見てもものすごく変だったと思います、それを見た近所の子供達が”うわっ!変な顔”と一言!!子供ですから正直ですよね。それ以来バレエはやめました、バレエは好きだったのですが、あの顔が余りにも恥ずかしくて、そして親にとっても、バレエはシューズや衣装やレオタードや思った以上にお金がかかるので、やめてくれた方がホッとしたと思います。

次に習ったのはオルガンでヤマハの教室に通っていました。そこでオルガンとエレクトーンを習って、2年したらそこを終了してピアノを習うと言うのがその頃のヤマハの教室の課程だったと思います。

ピアノも大好きでした。ただ、両親はもちろんピアノなど習った事も無かったので、先生に習ってから家に帰って練習をする時に、わからない事を誰にも聞く事が出来ないのです。ですから思った様に進んでいきません、発表会では初めてグランドピアノを目の前にして、どこが真ん中の”ド”なのかわからなくて、結局1オクターブ上で弾いてしまいました。それでも、習いに行って私の順番が来るまで待っている時に、お姉さん達が習っている曲を聞いて、“私もいつかあの曲が弾ける様になりたいと”夢に見ていたものでした。

それから間もなく父の会社の関係で引っ越すことになり、ピアノはきっと新しい所へ行って、落ち着いたら始めるのだろうと思っていましたが、いつまでたっても先生を捜している様子は無く、母に聞いてみると、ピアノはもういいんじゃない?と言われ、少し残念でしたが、親の言う事を聞くのが当たり前の年齢でしたのでそれでピアノは終わりました。親になってあの頃の両親の気持ちを考えたとき、さほど上達が早くない娘のピアノにかけるお金はなかったのだろうと思います。家のローンもあり、兄の大学の費用も貯金しておかなくては、と思えばその選択は当然だと思います。

それでも、バレエもピアノも嫌いでやめた訳ではなかったので、中学に入り、回りにピアノが弾ける子、バレエとは違うけど体操が上手い子がいて、”あ〜、私もあのまま習っていたら彼女達くらいに出来ていたかもしれないな”って思うと残念で、今からでもやりたいなと思う様になり、両親に“もう一度始めてはだめ?”と聞いてみましたが、もちろん”ノー”でした。

その時に私は思ったのです、将来自分に子供が出来たら、女の子だったらバレエを、男の子だったらピアノかヴァイオリンを習わせたいと、ヴァイオリンと言うのは私のやってみたい楽器で、でも学校にも無いし、楽器屋さんで見ても高そうだし、触れる事も出来ません。いつか触ってみたい、弾く事は出来なくても弾いている所を目の前で見てみたい、とずっと思っていました。

こうして、中学生の時に私の将来の子供達に託す夢が決まったのです。

親の夢を子供に押し付けてはいけないと言うような事を言われる事もありますが、でも子供は自分で決める事は出来ませんよね、ですからまずは親が与える所から始めなければ。

結論から言うと、家は男の子二人でしたので、ピアノとヴァイオリンを習う事となりました。

そのお話はまたそのうちに書こうと思います、今回は長くなってしまったのでこの辺で、次回はもうひとつ子供の頃に思っていた事でその通りにした事を書こうと思います。子供って大人が思うよりもっと、深く、色々な事を小さい頭なりに考えているものですよね。それでは、また

2、海外での生活で思った事

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私がオーストラリアでのワーキングホリデーを終えてから、ここニュージーランドへ来た頃(34〜5年前)は、その頃の日本に比べ、随分と遅れていると言う印象でした。テレビのチャンネルも二つしか無く、海外から仕入れた番組はまだしも、こちらで作られた番組はあまり面白い物は無く、夜の11:00になるとキウイ(鳥)のアニメが出て来て”今日の番組は終了しました”となり、あとはもう本を読むか寝るしか無いと言うような感じでした。

エンターテインメント的には大分遅れている感じの国でしたが、緑が多くのんびりとしていて、都会が苦手な私には、自然体で過ごせる居心地の良い国でした。海外生活で、何よりも一番良いと思うのは、何のしがらみも面倒なおつきあいも無いと言う事ですね。たとえば、日本ではなにかして頂いた事に対してお礼を物や形で表すのは、時と場合にもよりますが、多くの場合周りと上手くやって行く上で当然しなければいけない事のように思うのですが、こちらでは”サンキュー”の一言ですみます、逆にこちらが何か相手に対してした時にも”サンキュー”と言えばそれで終わりです。

別に冷たい訳ではなく、おつきあいが面倒な訳でもありません、言うなれば、困っているときはお互い様という精神につながると思います。それがとても自然で、余計な気を使う必要がないと言うのは生きて行く上でとても楽ですね。周りを気にしすぎる事無く、冬でも暑ければ半袖で、雨で濡れても気にしないなら傘はいらないですし、靴も履きたくなければ履かなくていい、そう言う、人に迷惑がかかる訳ではない事でまわりに合わせなくても良いと言うのも楽に生きられる一つの理由ですね。

 

でも、もちろん良い所ばかりではありません、世界中の多くの人が日本の時間の観念に驚嘆する様に、時間を守ると言う事に関しては日本は“凄い”と思います。

新幹線、列車、バスなどの時間もさることながら、一人一人が時間を守る事を当たり前と思っている事がとても凄い事だと思います。

こちらでは、時間に遅れるのは日常茶飯事です、仕舞いには来ると約束しておいて来ない事もあります。電話をして”遅れているけどどうしたの?”って聞くと”ごめんごめん’もう一つの用事が終わらなくて、、、とか、、だったらそう電話ででもちょっと連絡してくれたらいいのにって思いますね。それでも、逆にこちらが遅れたとしても、あまり気にしていないようなので、そういうお国柄と言うか、結局どちらかといえば日本がキッチリし過ぎの感があるのでしょうね。

そんな国で30年以上、言ってみれば日本で過ごした時間以上の時間を生きて来た訳ですから、きっと私も日本の物差しでは計れない人間なのかも知れません。

次はそんな私の子育てを振り返ってみようかと思います。結婚して7年目でやっと出来た待望の息子達、母親になる事が一番の夢だった私が、ようやく授かった子供です。

子供が出来たら”こうしようああしよう”と考えていたことは結局出来たのか、それで良かったのか、などなど自分なりに振り返ってみるのもいいかもしれませんね。

それでは、今回はこの辺で

 

1、海外生活30数年、今まで、今、これからの事を書いていこうと思います。

海外へ移住してから、気がついたらこんなに時が過ぎていました。

 

結婚7年目にやっと年子で念願の子供が出来てからは、離婚、母子家庭の貧困事情、息子たちの習い事、などなどなどなど、いろいろなことがあり、経済的には大変でしたが(今も)、私の最大の夢である子育てを経験する事が出来て、毎日本当に楽しくて楽しくて、あっという間に時が過ぎました。

これからもまだまだ課題はたくさんあり、息子達のこれからや日本にいる高齢な両親にしてあげられる事、そしてシングルである私の今後など、考えなければいけないことは盛り沢山ですが、子育てと言う事に関してはほぼ手が離れてしまった今、海外移住してから今までのたくさんの経験、日々の積み重ねを振り返りつつブログに書いてみようかと思い立ちましてこれを始める事にしました。

 

海外にいたからで来た事、日本を離れて思う事、小賢しいくらいいろいろ考えてやって来た子育ての事、海外生活あるあるなど、これから海外へ移住される方々、または日本でやって行かれる方々にも、なにか参考になる事があれば良いな〜と思います。

日本では60を過ぎ、65あたりになるとほぼ高齢者、シニア、老人というように認識されてしまうようですが、海外ではまだまだ現役の社会人で、65歳を過ぎてから新しく資格を取ったり、たとえばバスの運転手さんなんかは結構お孫さんのいる白髪の方達が多かったり、また、求人に対して年齢制限はありませんし、どこか体が悪いのでもない限り、楽隠居をしている人の方が少ない気がします。

日本では高齢者と呼ばれる人の数が増えているのに、その中で仕事を見つけられる人が少ないと言うのが大変残念に思います。

私の父にしても、今はもう92歳ですが、それでも大変元気で頭も体もしっかりしており、80代の頃なんかは、まだまだ働ける気力と体力があったのに、求人は年齢制限で見つかる訳もありませんでした。

話はそれてしまいましたが、そう言った色々な過ぎた事、今の事、これからの事や感じた事等多岐にわたってまずは時系列で過去からさかのぼって書いて行きたいと思いますので、宜しくお願いします。